松岡外相はアメリカを説得するため、ドイツと不可侵条約を結んでいたソ連にも接近して昭和16(1941)年4月に「日ソ中立条約」を締結しましたが、そのわずか2か月後の6月にドイツが独ソ不可侵条約を破ってソ連に侵攻したため、外相の目論見(もくろみ)が外れてしまいました。
また、三国同盟を結んだといっても、遠く離れたドイツやイタリアが我が国の危機に際して援軍をすぐに送ってくれる可能性は低かったですし、何よりも三国同盟を口実にアメリカが我が国に対して態度をさらに硬化させ、後述するような報復ともいえる措置(そち)を次々と行うようになるのです。
さらに付け加えれば、同盟締結時は破竹の勢いだったドイツがやがて劣勢(れっせい)に転じたことで、そんなドイツと同盟を結んでしまっていた我が国がますます不利になっていくのは避けようもない流れとなってしまいました。
要するに、我が国は第二次世界大戦の開戦直後にドイツが見せた強さに驚くあまり、その行く末を見誤ったのです。もし我が国が当時の世界各国の本当の情勢を的確につかんでいればと悔やまれてなりません。
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