この結果に慌(あわ)てたソ連のスターリンはドイツに停戦の仲介を依頼するとともに、ヨーロッパとアジアの二正面から攻撃を受けないようにするためドイツと和平を結ぶことを画策しましたが、これはポーランド侵攻を考えていたドイツのヒトラーにとっても「渡りに船」でした。なぜなら、ソ連と和平を結ぶことでドイツ自身も東西の両方から攻撃を受ける危険性がなくなるからです。
かくして、独ソ両国は1939(昭和14)年8月に独ソ不可侵条約を結んで、当時の世界に大きな衝撃を与えましたが、それは我が国も例外ではありませんでした。
なぜなら、当時の平沼騏一郎(ひらぬまきいちろう)内閣が日独防共協定に基づいてソ連を仮想敵国とみなしていたほか、ドイツから提案のあった「仮想敵国をイギリスやフランスにまで拡大する」という協定強化案を検討中だったからです。
平沼内閣は独ソ不可侵条約を防共協定違反として批判したほか、平沼首相自身が「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」として内閣を総辞職し、かわって阿部信行(あべのぶゆき)が新たに内閣を組織しました。
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