ノモンハン事件の被害の大きさにショックを受けたソ連の当時の支配者だったスターリンは、ドイツに停戦の仲介を依頼し、その流れで両国は1939(昭和14)年8月に「独ソ不可侵条約」を結びましたが、この条約には、ポーランドをドイツとソ連とで分割することや、いわゆるバルト三国をソ連が占領するのをドイツが黙認することなどが密約されていました(詳しくは後述します)。
もし我が国がソ連軍の実際の被害の大きさや独ソによる密約を諜報活動によって入手していれば、我が国が有利な立場になるまでいくらでも停戦を引き延ばすことが可能だったでしょう。しかし実際には、防共協定(=反共協定)を一緒に結んでいたはずのドイツの「裏切り」に我が国が動揺(どうよう)し、後述のように内閣交代という事態にまで及んでしまいました。
世界の動きを綺麗事だけで語ることは絶対にできません。国際社会の優等生として振る舞うだけでなく、同時に複雑怪奇な世界の情勢をしたたかに生き抜く力強さが当時の我が国にあれば、と思われてなりません(もちろん現代においても同じことが言えますが)。
なお、ノモンハン事件が起きた当時の外蒙古(=外モンゴル)では、ソ連による粛清(しゅくせい)に対する反乱が度々起きていました。もし我が国が停戦に応じずにソ連軍を撃退することができていれば、ソ連による外蒙古の支配が行きづまり、モンゴルに親日的な政権が誕生して、ソ連との国境に対する大きな牽制(けんせい)となった可能性すらあります。
国家における一つの政治的あるいは軍事的な決断が、かくのごとく世界中に大きな影響を及ぼすこともあるのです。
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