近衛による一連の行動の背景には、国民に基礎を置く強力な新党をつくって近衛自身が新たに内閣を組織し、既成の政党政治を打破しようという思惑がありました。また、前年に勃発した第二次世界大戦に対処するための総力戦体制を構築しようという思想も運動を後押ししました。
近衛は昭和15(1940)年7月に第二次内閣を組織した後、同年10月に新たに成立した大政翼賛会(たいせいよくさんかい)の総裁に就任すると、立憲政友会や立憲民政党、あるいは無産政党の社会大衆党など多くの諸政党が次々と解散して合流しました。ただし、ドイツやイタリアのような一党独裁とは異なり、大政翼賛会が誕生しても、我が国の国会(=帝国議会)は制約こそ加えられたものの、戦時中も停止されることはありませんでした。
大政翼賛会はその下部組織として産業報国会や大日本婦人会、町内会や部落会、あるいは隣組を指導下に置いたため、国民生活全体を統制する組織として機能しました。また、昭和16(1941)年には小学校が国民学校と改称され、日本国民としての自覚や実践といった基礎的錬成(れんせい)に基づく教育が行われました。
なお、現代でもよく使用される「バスに乗り遅れるな」というスローガンは、新体制運動の際に広く使用されるようになったという説があります。
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