近衛首相の考えも広田外相と同様であったことから、閣議において交渉打ち切りを決定し、昭和13(1938)年1月16日に「今後国民政府を対手(あいて)とせず」という声明を発表しました。これを第一次近衛声明といいます。
近衛首相がこのような一方的な声明を出した理由としては、我が国と友好的な政府がチャイナにできることを期待していたからだ、という説もありますが、声明が出された当時のチャイナに存在していた有力な政府組織は、蒋介石の国民政府以外には有り得ませんでした。つまり、我が国は第一次近衛声明によって、日華事変の早期停戦に向けての唯一の窓口を自ら閉ざした結果となってしまったのです。
第一次近衛声明の発表は日華事変の泥沼化を招きましたが、その一方で軍部の統制派と同じ思想を持った官僚によって、国家総動員法など社会主義的な内容の法制度が次々と成立した一方で、ソ連への備えがおろそかになるという流れをもたらしましたが、この声明によって一番得をしたのは果たして誰なのでしょうか。
当時の近衛内閣には、後にソ連(=コミンテルン)のスパイとして処刑された尾崎秀実(おざきほつみ)がブレーンとして暗躍(あんやく)していたことを、私たちは忘れてはいけません。
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