そんな幕府を倒すために何度も兵を挙げられ、結果として建武の新政が実現できたことは、後醍醐天皇にとっては当然のことであり、このまま天皇による新政が未来永劫(みらいえいごう)続くものであると思われていました。
しかし、後醍醐天皇に味方して鎌倉幕府を倒すのに協力した武士たちは、勢力が衰(おとろ)えて政治を任せられなくなった幕府の代わりに、他の武士による新しい組織のもとで、これまでどおりの「武士による、武士のための政治」を続けることを望んでいたのでした。
それなのに、後醍醐天皇は皇族や公家のための政治しか実行せずに、これまで守られてきた土地の所有権などの武士の権利がないがしろにされたことで、建武の新政に対する武士たちの不満は次第に高まっていきました。
平氏政権が貴族化した際もそうであったように、いくら武力などで世の中を支配したところで、それが国民の理解を得られなければ、その政権は絶対に長続きできないのです。この場合も、当時の国民の代表たる武士の期待に応えられなかった建武の新政にはかげりが見え始めていました。
そして、そんな武士たちの空気を察(さっ)したかのように、後醍醐天皇から「最高の栄誉」を受けたはずの一人の武士が、建武の新政に対して反旗(はんき)をひるがえしたのでした―。




いつも有難うございます。
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佐佐木あつし こんにちは先生。
微妙な質問なんですが
朱子学ってどっちかと言えば
本家の方ではマイナーな考えですよね・・あれって、
誰が日本に持って帰ってきたんですか?
というより
誰が後醍醐天皇に吹き込んだのかなぁ?
まあ、家康に至っては確信犯だったとは思うんですが・・
すいません、ふと質問が涌いてきちゃって・・
お教えください(≧∇≦)b
佐佐木あつしさんへ
黒田裕樹 > 微妙な質問なんですが
> 朱子学ってどっちかと言えば
> 本家の方ではマイナーな考えですよね・・あれって、
> 誰が日本に持って帰ってきたんですか?
そうですね。本家の中国よりは我が国の方が広まりましたから、そういう印象が強いですね。
朱子学が初めて我が国に持ち込まれたのは鎌倉時代の初期といわれていますが、定かではないようです。ただ、少なくとも鎌倉幕府の五山の学問として広まったことは確かなようです。
> というより
> 誰が後醍醐天皇に吹き込んだのかなぁ?
> まあ、家康に至っては確信犯だったとは思うんですが・・
後醍醐天皇に関しては私もよく存じませんが、可能性があるとすれば先述した鎌倉五山あたりからかもしれませんね。
家康の場合は徳川家の繁栄のために意識的に導入したという側面がありますから、たしかに確信犯ですね(笑)。
> すいません、ふと質問が涌いてきちゃって・・
> お教えください(≧∇≦)b
答えになったかどうか分かりませんが(爆)、こんなところでよろしいでしょうか?
また何でもご質問下さい(^^♪
.
オバrev なるほど、朱子学が後醍天皇の考えの根本だったんですね。
だからあそこまで頑張れたんですね。
だけど、政権の安定のためには政治力、経済力、軍事力に国民の支持をバランスよく得ていることが大事ですね。
民主党の謀議員は、政治力+経済力+軍事力があるけど、その独裁政治に国民の支持はないように思いますが・・・。
黒田先生.
りら 後醍醐天皇のような 良くも悪くも
政治的権力を持つ事が出来た
天皇が後に続き 天皇政治が続いていたとしたら
日本はどうなっていたか 考えました
ヨーロッパの王政のようにです
私への 素晴らしいコメント有り難く感謝しています
励みになります 有難うございます
オバrevさんへ
黒田裕樹 > なるほど、朱子学が後醍醐天皇の考えの根本だったんですね。
> だからあそこまで頑張れたんですね。
朱子学の元になった儒学は、良くも悪くも執念深いですからね。
最後まであきらめないことの重要性もうかがえます。
> だけど、政権の安定のためには政治力、経済力、軍事力に国民の支持をバランスよく得ていることが大事ですね。
> 民主党の謀議員は、政治力+経済力+軍事力があるけど、その独裁政治に国民の支持はないように思いますが・・・。
仰るとおりだと思います。
今までの歴史を振り返れば、国民の支持を得られない政治は絶対に長続きできません。ただ、民主党政治が終わるのが早いのか、それとも…。
りらさんへ
黒田裕樹 > 後醍醐天皇のような 良くも悪くも
> 政治的権力を持つ事が出来た
> 天皇が後に続き 天皇政治が続いていたとしたら
> 日本はどうなっていたか 考えました
> ヨーロッパの王政のようにです
当時の国民の代表的組織は武士でしたから、武士のための政治に対して後醍醐天皇が寛容であれば、あるいは長続きしたかもしれませんね。
ただ、その場合はヨーロッパの王政とは一味違う道のりを歩んだと考えられます。
ヨーロッパでは王朝交代がそれこそ当たり前でしたが、我が国の本当の元首はずっと天皇だからです。もっとも、この時期は真っ二つに分かれたことで、かえって存続が危ぶまれましたが…。
> 私への 素晴らしいコメント有り難く感謝しています
> 励みになります 有難うございます
いえいえ、りらさんのブログこそ、私に様々なことを思い出させたり、考えさせたりして下さいます。こちらこそ有難うございます。
.
ぴーち こんばんは!
リンカーンの言葉を思い出して
いました。
「人民の人民による人民ための政治」やはり民衆が主役であり、
そうあるべきなんだなと思いますねェ。
応援凸
管理人のみ閲覧できます
-
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > リンカーンの言葉を思い出して
> いました。
> 「人民の人民による人民ための政治」やはり民衆が主役であり、
> そうあるべきなんだなと思いますねェ。
全く以ってそのとおりです。
「俺は政治家だから偉いんだ」。そう思うのは個人の自由ですが、自分が政治家として食べていけるのも、すべては支持する大多数の国民あってこそなんですよね。
一部の利益しか考えられないようでは、国民の支持を失って失脚するか、国と運命をともにしてしまうでしょう。後者は願い下げですけどね(笑)。
.
クメゼミ塾長 高氏立つ ですね
天皇親政、天智・天武・持統天皇…
天皇親政、どうしても、身内擁護になりますよね
まあ、天皇が全ての正義と定義すると、武士の反駁は全て謀反になりますが…
そういえば、『天皇ご謀反』これも変ですねえ
『勝てば官軍、世の習い』ですね
クメゼミ塾長さんへ
黒田裕樹 確かに本来はこの国の元首である天皇の「ご謀反」というのは日本語として「?」という感じがします。
仰られた「高氏」がこの後どうなるのかですが、彼の「謀叛」が結果として成功するかどうかは、武士の支持にかかかっているといえますね。
微妙な質問なんですが
朱子学ってどっちかと言えば
本家の方ではマイナーな考えですよね・・あれって、
誰が日本に持って帰ってきたんですか?
というより
誰が後醍醐天皇に吹き込んだのかなぁ?
まあ、家康に至っては確信犯だったとは思うんですが・・
すいません、ふと質問が涌いてきちゃって・・
お教えください(≧∇≦)b
> 朱子学ってどっちかと言えば
> 本家の方ではマイナーな考えですよね・・あれって、
> 誰が日本に持って帰ってきたんですか?
そうですね。本家の中国よりは我が国の方が広まりましたから、そういう印象が強いですね。
朱子学が初めて我が国に持ち込まれたのは鎌倉時代の初期といわれていますが、定かではないようです。ただ、少なくとも鎌倉幕府の五山の学問として広まったことは確かなようです。
> というより
> 誰が後醍醐天皇に吹き込んだのかなぁ?
> まあ、家康に至っては確信犯だったとは思うんですが・・
後醍醐天皇に関しては私もよく存じませんが、可能性があるとすれば先述した鎌倉五山あたりからかもしれませんね。
家康の場合は徳川家の繁栄のために意識的に導入したという側面がありますから、たしかに確信犯ですね(笑)。
> すいません、ふと質問が涌いてきちゃって・・
> お教えください(≧∇≦)b
答えになったかどうか分かりませんが(爆)、こんなところでよろしいでしょうか?
また何でもご質問下さい(^^♪
だからあそこまで頑張れたんですね。
だけど、政権の安定のためには政治力、経済力、軍事力に国民の支持をバランスよく得ていることが大事ですね。
民主党の謀議員は、政治力+経済力+軍事力があるけど、その独裁政治に国民の支持はないように思いますが・・・。
政治的権力を持つ事が出来た
天皇が後に続き 天皇政治が続いていたとしたら
日本はどうなっていたか 考えました
ヨーロッパの王政のようにです
私への 素晴らしいコメント有り難く感謝しています
励みになります 有難うございます
> だからあそこまで頑張れたんですね。
朱子学の元になった儒学は、良くも悪くも執念深いですからね。
最後まであきらめないことの重要性もうかがえます。
> だけど、政権の安定のためには政治力、経済力、軍事力に国民の支持をバランスよく得ていることが大事ですね。
> 民主党の謀議員は、政治力+経済力+軍事力があるけど、その独裁政治に国民の支持はないように思いますが・・・。
仰るとおりだと思います。
今までの歴史を振り返れば、国民の支持を得られない政治は絶対に長続きできません。ただ、民主党政治が終わるのが早いのか、それとも…。
> 政治的権力を持つ事が出来た
> 天皇が後に続き 天皇政治が続いていたとしたら
> 日本はどうなっていたか 考えました
> ヨーロッパの王政のようにです
当時の国民の代表的組織は武士でしたから、武士のための政治に対して後醍醐天皇が寛容であれば、あるいは長続きしたかもしれませんね。
ただ、その場合はヨーロッパの王政とは一味違う道のりを歩んだと考えられます。
ヨーロッパでは王朝交代がそれこそ当たり前でしたが、我が国の本当の元首はずっと天皇だからです。もっとも、この時期は真っ二つに分かれたことで、かえって存続が危ぶまれましたが…。
> 私への 素晴らしいコメント有り難く感謝しています
> 励みになります 有難うございます
いえいえ、りらさんのブログこそ、私に様々なことを思い出させたり、考えさせたりして下さいます。こちらこそ有難うございます。
リンカーンの言葉を思い出して
いました。
「人民の人民による人民ための政治」やはり民衆が主役であり、
そうあるべきなんだなと思いますねェ。
応援凸
> いました。
> 「人民の人民による人民ための政治」やはり民衆が主役であり、
> そうあるべきなんだなと思いますねェ。
全く以ってそのとおりです。
「俺は政治家だから偉いんだ」。そう思うのは個人の自由ですが、自分が政治家として食べていけるのも、すべては支持する大多数の国民あってこそなんですよね。
一部の利益しか考えられないようでは、国民の支持を失って失脚するか、国と運命をともにしてしまうでしょう。後者は願い下げですけどね(笑)。
天皇親政、天智・天武・持統天皇…
天皇親政、どうしても、身内擁護になりますよね
まあ、天皇が全ての正義と定義すると、武士の反駁は全て謀反になりますが…
そういえば、『天皇ご謀反』これも変ですねえ
『勝てば官軍、世の習い』ですね
仰られた「高氏」がこの後どうなるのかですが、彼の「謀叛」が結果として成功するかどうかは、武士の支持にかかかっているといえますね。