栄一らは槍や刀などを着々と買い集め、文久3(1863)年旧暦10月29日の夜に決行のために集結しましたが、急進派の一人であり、京都から戻ったばかりの長七郎が計画の中止を唱え始めました。京都で最新の国内情勢を入手した長七郎は、栄一たちの計画が成功する見込みがないどころか、百姓一揆と見なされて無駄に生命を落とすだけであると懸命に説得しました。
栄一は長七郎と激論を交わしましたがやがて同意し、計画を寸前に取りやめることになるのですが、こうした「極限状態における人生の選択」において、最善あるいは最良の道を歩んでいったのも、栄一の人生における大きな特徴なのです。
さて、計画は中止したものの、不穏な動きを探っている幕府側に目をつけられる恐れがあったため、栄一と喜作はかねてより親交のあった一橋家(ひとつばしけ)の家臣である平岡円四郎(ひらおかえんしろう)を頼って京都に向かいました。
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