なお、コレラの被害はその後も続き、文久(ぶんきゅう)2(1862)年には江戸で約7万人が死亡したほか、明治初期にも何度も流行して多数の犠牲者が出ています。
こうした流れを受けて、庶民の怒りはそのまま外国に対する反感となり、貿易を行っていた商人や我が国に在留する外国人が襲われるようになると、これがそのまま攘夷運動の激化につながりました。
また、世相(せそう)の不安が農村では百姓一揆の、都市では打ちこわしの多発を招き、これらに対応しきれない幕府の権威はますます下がっていきました。
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