そして、通州事件や大山事件から間もない昭和12(1937)年8月12日に、国民政府軍が日本総領事館と商社の電話線を切断し、翌13日には上海の租界(そかい、中華民国内の外国人居留地のこと)から外に通じる道路をすべて遮断(しゃだん)して、多くの日本人やチャイナの人々を含む一般市民が逃げられないように閉じ込めたうえで一方的な攻撃を開始しました。これを「第二次上海事変」といいます。
事変発生時、上海の日本軍は海軍陸戦隊の約4,000名しかおらず、もし陸戦隊が全滅して国民政府軍の租界への侵入を許せば、第二の通州事件として大虐殺(だいぎゃくさつ)が起きるのが目に見えていたことから、我が国は同日のうちに陸軍2個師団の派遣を決定しましたが、2個師団は同月23日にようやく上海に到着しました。
このため、我が国の海軍陸戦隊は10日近くも10倍以上の敵兵相手に奮戦することとなってしまいました。何とか全滅は免れて「上海大虐殺」という最悪の事態は防げたものの、上海が列強の共同租界であったため、日本人やチャイナの人々、あるいは欧米人を含む約3,600名が死傷するという悲劇となってしまったのです。
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