ちなみに、天皇の追号(ついごう)は崩御後に決められるものですが、平安時代の醍醐天皇(だいごてんのう)による延喜の治(えんぎのち)を理想とされたことから、後醍醐天皇は生前から自らを「後醍醐」と追号されるようにお決めになっておられました。ご自身の理想の高さと強い決意の現れと判断すべきかもしれません。
さて、後醍醐天皇が親政を始められた頃の鎌倉幕府は、第14代執権の北条高時(ほうじょうたかとき)や内管領(うちかんれい)の長崎高資(ながさきたかすけ)による得宗専制政治(とくそうせんせいせいじ)が行われる一方で、分割相続などによって御家人の窮乏化(きゅうぼうか)が進んだことで、幕府に対する反発が大きくなっていました。
これを好機と思われた後醍醐天皇は、討幕(とうばく)の計画を二度も進められましたがいずれも失敗され、幕府によって隠岐(おき)へと流されました。なお、1324年に起きた一回目の討幕は正中の変(しょうちゅうのへん)と呼ばれ、二回目の1331年は元弘の変(げんこうのへん)と呼ばれています。




いつも有難うございます。
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りら 後醍醐天皇が追号を後醍醐とご自分で決められたんですね
では何故 そこまで その名前にこだわったのでしょう
出来れば教えて下さい
りらさんへ
黒田裕樹 > 後醍醐天皇が追号を後醍醐とご自分で決められたんですね
> では何故 そこまで その名前にこだわったのでしょう
> 出来れば教えて下さい
本文にも書かせていただきましたが、後醍醐天皇は天皇ご自身による親政を理想とされておられました。その前例として、平安時代初期の醍醐天皇による延喜の治こそがふさわしいと考えておられ、自分も醍醐天皇のように政治を行いたいと強く思われるようになりました。
そこで、本来は崩御後に周囲が決めるご自身の追号を、生前から「後醍醐」とすると決めておられたのです。このような例は非常に珍しいですね。
ちなみに、明治天皇以後は、一世一元の制により、ご在位の際に使用された元号を追号とすることになっています。
.
ぴーち こんばんは!
天皇自ら、政治の表舞台に出て
実権を握りたいと考えた天皇は
珍しい事だったのでしょうか。
と、歴史に疎い人間らしい?模範にもならない質問でお許しください(^^A
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 天皇自ら、政治の表舞台に出て
> 実権を握りたいと考えた天皇は
> 珍しい事だったのでしょうか。
古代ならいざ知らず、中世では珍しいですね。
後鳥羽上皇が復権をかけて承久の乱を起こして失敗しただけに、至難の業ではないかと思われたのですが…。
> と、歴史に疎い人間らしい?模範にもならない質問でお許しください(^^A
いえいえ、素朴な疑問ほど重要なものはないですよ。
「なぜ?」「どうして?」と思うことから探究心が広がりますからね(^_^)v
.
スカイラインV35 醍醐天皇と村上天皇の”延喜・天暦の治”が後世に理想の時代とされたのは、摂関家を置かず(既にこの頃は形式的だったかもしれませんが)天皇親政が実現された最後の時代だからなんですよね。天皇号も村上天皇以降は、数例を除いて、江戸時代末期まで900年復活しなかったようですね。
そして、醍醐天皇の系譜と同じように、後醍醐天皇の父親を後宇多天皇、後醍醐天皇の次代を後村上天皇としたんですよね。
それにしても後醍醐天皇の執念というかパワーは物凄いものがありますね。
スカイラインV35さんへ
黒田裕樹 > 醍醐天皇と村上天皇の”延喜・天暦の治”が後世に理想の時代とされたのは、摂関家を置かず(既にこの頃は形式的だったかもしれませんが)天皇親政が実現された最後の時代だからなんですよね。天皇号も村上天皇以降は、数例を除いて、江戸時代末期まで900年復活しなかったようですね。
仰るとおりです。たまたま藤原氏に有力な人材がいなかったという理由もありますが、天皇が自ら政治を行われたのはこの時代が最後でしたからね。同時期に天皇号も消滅して、江戸時代の光格天皇まで待たないといけませんでしたから、皇室にとっては不遇な時代だったのかもしれません。
> そして、醍醐天皇の系譜と同じように、後醍醐天皇の父親を後宇多天皇、後醍醐天皇の次代を後村上天皇としたんですよね。
両方とも後醍醐天皇の意図が強く反映されていますね。後村上天皇も生前追号ですが、これは完全に父君である後醍醐天皇のお考えによるものと思われます。
> それにしても後醍醐天皇の執念というかパワーは物凄いものがありますね。
いずれ後述しますが、後醍醐天皇が熱心に研究された学問がカギを握っていると考えられます。大陸伝来ですからしぶといですよ(笑)。
では何故 そこまで その名前にこだわったのでしょう
出来れば教えて下さい
> では何故 そこまで その名前にこだわったのでしょう
> 出来れば教えて下さい
本文にも書かせていただきましたが、後醍醐天皇は天皇ご自身による親政を理想とされておられました。その前例として、平安時代初期の醍醐天皇による延喜の治こそがふさわしいと考えておられ、自分も醍醐天皇のように政治を行いたいと強く思われるようになりました。
そこで、本来は崩御後に周囲が決めるご自身の追号を、生前から「後醍醐」とすると決めておられたのです。このような例は非常に珍しいですね。
ちなみに、明治天皇以後は、一世一元の制により、ご在位の際に使用された元号を追号とすることになっています。
天皇自ら、政治の表舞台に出て
実権を握りたいと考えた天皇は
珍しい事だったのでしょうか。
と、歴史に疎い人間らしい?模範にもならない質問でお許しください(^^A
応援凸
> 実権を握りたいと考えた天皇は
> 珍しい事だったのでしょうか。
古代ならいざ知らず、中世では珍しいですね。
後鳥羽上皇が復権をかけて承久の乱を起こして失敗しただけに、至難の業ではないかと思われたのですが…。
> と、歴史に疎い人間らしい?模範にもならない質問でお許しください(^^A
いえいえ、素朴な疑問ほど重要なものはないですよ。
「なぜ?」「どうして?」と思うことから探究心が広がりますからね(^_^)v
そして、醍醐天皇の系譜と同じように、後醍醐天皇の父親を後宇多天皇、後醍醐天皇の次代を後村上天皇としたんですよね。
それにしても後醍醐天皇の執念というかパワーは物凄いものがありますね。
仰るとおりです。たまたま藤原氏に有力な人材がいなかったという理由もありますが、天皇が自ら政治を行われたのはこの時代が最後でしたからね。同時期に天皇号も消滅して、江戸時代の光格天皇まで待たないといけませんでしたから、皇室にとっては不遇な時代だったのかもしれません。
> そして、醍醐天皇の系譜と同じように、後醍醐天皇の父親を後宇多天皇、後醍醐天皇の次代を後村上天皇としたんですよね。
両方とも後醍醐天皇の意図が強く反映されていますね。後村上天皇も生前追号ですが、これは完全に父君である後醍醐天皇のお考えによるものと思われます。
> それにしても後醍醐天皇の執念というかパワーは物凄いものがありますね。
いずれ後述しますが、後醍醐天皇が熱心に研究された学問がカギを握っていると考えられます。大陸伝来ですからしぶといですよ(笑)。