なお、御成敗式目は当時の年号にちなんで「貞永式目」とも呼ばれており、また式目が51か条となったのは、聖徳太子(しょうとくたいし)の「憲法十七条の3倍」が由来とされています。
北条泰時による執権政治は、孫の5代執権である北条時頼(ほうじょうときより)に引き継がれました。時頼が執権に就任した直後の寛元(かんげん)4(1246)年に前将軍の藤原頼経(ふじわらのよりつね)が反乱を起こしましたが、これを鎮圧した時頼は、頼経を京都へ送り返しました。
また、翌宝治(ほうじ)元(1247)年には有力御家人の三浦泰村(みうらやすむら)を滅ぼし、北条氏の嫡流(ちゃくりゅう、正当な血筋を持つ家柄のこと)で執権を世襲する得宗家(とくそうけ)の勢力の拡大に成功しました。三浦泰村との戦いは、当時の年号から「宝治合戦(かっせん)」と呼ばれています。
さらに建長(けんちょう)4(1252)年には5代将軍の藤原頼嗣(ふじわらのよりつぐ)を京都へ追放し、代わりに後嵯峨(ごさが)上皇の皇子である宗尊(むねたか)親王を6代将軍として迎えました。これ以降、名目だけの「皇族将軍」または「親王将軍」が幕府滅亡まで4代続くことになります。
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