二・二六事件によって岡田内閣は総辞職し、かわって広田弘毅(ひろたこうき)が首相となって新たな内閣を組織しました。挙国一致内閣として成立した広田内閣でしたが、陸軍の主導権を握った統制派の影響は避けられず、その目標に経済の国家統制強化をめざした「広義国防国家」を掲げました。
また、陸軍の強い要求を受けた広田内閣が廃止されていた「軍部大臣現役武官制」を復活させたため、軍部の政治に対する影響力をさらに強めることになってしまいましたが、このことが大東亜戦争後に開かれた極東国際軍事裁判(=東京裁判)において、文官でただ一人A級戦犯にされて死刑となった理由の一つではないかといわれています。
さて、二・二六事件に関しては反乱軍とされた青年将校たちへの同情心が現代においても深いものがあるようですが、事件の本質そのものは、金融恐慌や昭和恐慌の影響によって貧富の差が拡大したことで、「貧しい者が富める者の存在を憎む」という共産主義思想が「天皇を中心とする社会主義」である国家社会主義思想へと姿を変え、その流れをくむ皇道派が起こしたクーデターでもありました。
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