これを岡田内閣打倒の好機と見た政友会が昭和11(1936)年1月に内閣不信任案を帝国議会に提出したのに対し、岡田内閣は衆議院を解散して総選挙に打って出ましたが、同年2月20日に行われた投票結果は政権与党である立憲民政党の勝利に終わり、政友会は惨敗しました。
与党の躍進(やくしん)という結果を受け、岡田内閣の政権基盤は安定化すると思われましたが、選挙結果に衝撃を受けた皇道派による「直接行動」によって、選挙からわずか6日後に我が国史上稀(まれ)に見る惨劇が起きてしまうのです。
昭和11(1936)年2月26日未明、皇道派の一部青年将校が「昭和維新」を目標として第一師団などの兵約1,400名を率いて決起し、首相の岡田啓介や大蔵大臣で元首相の高橋是清、内大臣で同じく元首相の斎藤実(さいとうまこと)、侍従長(じじゅうちょう、天皇・皇后の側近として仕える侍従の長官)の鈴木貫太郎(すずきかんたろう)らを襲撃しました。
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