北条時政は頼家の弟である源実朝(みなとものさねとも)を3代将軍に就任させると、自分は政所の別当となりました。さらに、後に時政の後を継いだ子の北条義時が建暦(けんりゃく)3(1213)年に侍所の別当だった和田義盛を滅ぼすと、義時自身が侍所の別当も兼ねるようになりました。
これ以降、幕府の主要機関である侍所と政所の別当を北条氏が代々世襲(せしゅう、子孫が代々受け継いでいくこと)するようになり、その地位は「執権(しっけん)」と呼ばれ、名ばかりの将軍と化した源氏に代わって、北条氏が幕府の実権を握るようになりました。
一方その頃、幕府の成立と勢力の拡大という厳しい現実を見せ付けられていた京都の朝廷では「治天の君」の後鳥羽上皇が中心となられて政治の立て直しが行われていました。上皇は分散していた広大な皇室領の荘園を手中に収められるとともに、朝廷の武力増強の一環として新たに「西面の武士」を置かれるなど、朝廷の権威の回復を目指されました。
なお「西面の武士」は、9世紀末に設けられた「滝口(たきぐち)の武士」や11世紀の「北面の武士」と混同しやすいので注意が必要です。
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