その後の頼朝は、落馬事故が原因で建久10(1199)年旧暦1月に死亡したことになっていますが、いかに戦争が不得意であったとはいえ、武家の棟梁が生命に関わる落馬事故を起こすとは思えません。史料にも頼朝の死の前後の記載があやふやになっているなど、詳しい死因は現在も分かっていません。
ただ、はっきり言えることは、頼朝の死後に源氏の運命が一気に暗転したということです。平氏の滅亡後に源義経が歴史の表舞台から退場したように、征夷大将軍となって幕府を開いた段階で、頼朝並びに源氏の役割は終わりを告げていたのでした。
頼朝の死後、子の源頼家(みなもとのよりいえ)が後を継いで2代将軍となりましたが、父並みの器量は望むべくもなく、いつしか幕府では頼朝の側近や有力御家人からなる「十三人の合議制」による政治が主流となりました。その中からやがて頭角を現したのが、頼朝の舅(しゅうと)である北条時政や頼朝の妻の北条政子を中心とする北条氏でした。なお、十三人の合議制の構成者は以下のとおりです(順不同)。
北条時政・北条義時(ほうじょうよしとき)・大江広元・三善康信・中原親能(なかはらのちかよし)・二階堂行政(にかいどうゆきまさ)・梶原景時・足立遠元(あだちとおもと)・安達盛長(あだちもりなが)・八田知家(はったともいえ)・比企能員(ひきよしかず)・三浦義澄(みうらよしずみ)・和田義盛
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