一方、その後の義経一行は何とか藤原秀衡のところまでたどり着くことができました。秀衡は義経の戦術の巧(たく)みさを来るべき頼朝との戦いの切り札にしようと考え、義経を手厚く保護しましたが、一年も経たないうちに秀衡が病死してしまいました。これも義経にとっては大きな不運だったのです。
秀衡の後を継いだ藤原泰衡(ふじわらのやすひら)は父ほどの器量を持っておらず、頼朝からの「義経を殺せば藤原氏の安泰は保証する」という誘いに乗ってしまい、文治(ぶんじ)5(1189)年旧暦閏4月に義経の住んでいた館を急襲しました。義経主従は奮戦しましたが多勢に無勢ではどうしようもなく、ついに義経は妻子とともに自害して果てました。わずか31歳の若さでした。
なお、義経の最期の際に、郎党(ろうとう、従者のこと)の武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)が義経をかばって屋外で体中に矢を浴びて立ったまま死んだとされる「立往生(たちおうじょう)」の伝説が残されています。また、義経を自ら殺したことによって切り札を失った泰衡は同年旧暦9月に頼朝によって倒され、約100年続いた奥州藤原氏は滅亡しました。
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