そればかりでなく、頼朝によって自分の領地をすべて取り上げられ、暗殺までされかけた義経はついに頼朝との全面対決を決意しました。義経は後白河法皇から「頼朝追討」の院宣(いんぜん、上皇=法皇からの命令書のこと)を強引にもらうと、九州で再起を図ろうと考え、精鋭とともに船出をしましたが、不運にも嵐にあって難破してしまいました。
かつて屋島の戦いにおいて嵐の中を短時間で四国に上陸を果たしたときと比べ、何という違いでしょうか。これ以降、それまでの幸運から見放された義経には苦難の道が続くことになります。
精鋭の大半を失った義経は、わずかな手勢を率いて、かつて自分をかくまってくれた奥州の藤原秀衡(ふじわらのひでひら)を頼って落ちのびました。なお、この逃亡の道中での北陸の安宅(あたか)の関における「勧進帳(かんじんちょう)」の伝説が残されており、現代でも歌舞伎などを通じて有名になっています。
一方、義経が没落していったのと対照的に、後白河法皇の「大きなミス」につけ込むことで、頼朝の悲願であった「武士のための政治」を達成できる「大きなチャンス」がめぐってきました。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。