義経による類稀(たぐいまれ)な戦術(=戦いに勝つための具体的な方法のこと)があったればこそ平氏を滅亡できたのであり、その功績は確かに大きいものがありました。しかし、頼朝は平氏滅亡を喜ぶどころか、義経による「信じがたい失策」に対して激怒しました。なぜならば、義経が天皇であることを証明する大事な「三種の神器」のすべてを取り戻すことができなかったからです。
頼朝個人としては、父の源義朝(みなもとのよしとも)の仇(かたき)である平氏が滅亡して嬉しくないはずがありません。しかし、彼は自分の利害よりも武士全体の利益を優先し、そのための「戦略(=戦争に勝つための総合的あるいは長期的な計略のこと)」を考える政治家でもありました。
関東で力をつけたうえで平氏を滅亡寸前にまで追い込んだ頼朝でしたが、それはあくまで軍事力のみの結果であり、武士に土地の個人所有を認めさせるといった「武士のための政治」を行うにはまだ力不足でした。
そこで頼朝は、当時は形式化してはいたものの、荘園などを監視する立場である朝廷との交渉によって「武士のための政治」を実現させようと考えており、その際に切り札となるのが「三種の神器」だったのです。
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