政治家向きの頼朝とは違って、義仲は寿永2(1183)年旧暦5月に越中(えっちゅう、現在の富山県)の倶利伽羅峠(くりからとうげ)で10万の大軍を率いた平氏を破るなどの戦上手(いくさじょうず)でした。ちなみにこの戦いは「倶利伽羅峠の戦い」と呼ばれており、平氏の総大将は富士川の戦いで大敗した平維盛でした。こんなところにも平氏の人材不足がうかがえます。
倶利伽羅峠の戦いに勝って意気上がる義仲が京都に迫ると、身の危険を感じた平氏は同年旧暦7月に安徳天皇とともに都落ちをしましたが、この際に院政を行っておられた後白河法皇を一緒にお連れできなかったことが、後々まで尾を引く結果となりました。
一方、京都に凱旋(がいせん)した義仲でしたが、彼の軍勢はいわゆる「寄せ集め」なうえに、何の準備もせずいきなり入京したため、その日の食糧にも欠く有様でした。そんな軍勢が、飢饉の爪痕(つめあと)が残っているとはいえ他国に比べれば裕福な京都に入ったらいったいどうなるでしょうか。
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