さらに平氏を待ち受けていたのが大飢饉(だいききん)でした。治承4(1180)年は異常気象に悩まされたこともあって農作物が不作となり、西日本を中心に餓死者(がししゃ)が相次いだばかりか、この状態が数年も続くという騒ぎになりました。これを飢饉が深刻化した当時の年号から「養和(ようわ)の大飢饉」といいます。
仏敵となったのは火の勢いがたまたま強かったのが理由であり、ましてや大飢饉の責任が平氏にあるはずもないことです。しかし、当時の人々は「飢饉は大仏を焼いたタタリであり、すべての原因は平氏にある」と固く信じており、平氏への恨みの声がますます高くなりました。
それでも平氏の武力や経済基盤はまだまだ盤石(ばんじゃく)であり、当面は平氏の天下が続くものと思われていましたが、彗星(すいせい)のように現れた源氏の若武者によって、寿永2(1183)年に平氏はついに都落ちを余儀(よぎ)なくされました。では、その若武者とは誰でしょうか。少なくとも源頼朝やその兄弟ではありません。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。