どんなに大きな勢力であっても、人材が育たなければいつかは必ず衰えますし、不可抗力な事態が起こった場合には、人々の恨みは時の政権に向けられます。平氏の政権も例外ではなく、末期になると立て続けに不幸が襲うようになりました。
まずは人材不足が平氏を悩ませました。清盛の長男で将来を期待されていた平重盛(たいらのしげもり)が、父に先立って治承3(1179)年に42歳で亡くなり、娘婿(むすめむこ)にあたり、院政を行われるはずだった高倉(たかくら)上皇も治承5(1181)年旧暦1月に崩御(ほうぎょ、天皇・皇后・皇太后・太皇太后がお亡くなりになること)されました。
そして、何よりも最大の不幸だったのが、清盛自身が病気となって同年旧暦閏(うるう)2月に64歳でこの世を去ってしまったことでした。清盛の死後は三男の平宗盛(たいらのむねもり)が平氏の新たな棟梁となりましたが、清盛ほどの器量は持っておらず、また後白河法皇が院政を再開されたこともあって、平氏による政権の将来に暗雲が立ち込め始めましたが、その原因は人材不足だけではありませんでした。
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