この戦いの後、頼朝は直ちに平氏を追いかけて都を目指さずに、鎌倉(かまくら)に入って足固めをしました。石橋山の戦いの敗北の経験から自分が戦争に向かないことを悟(さと)ったうえで、関東で自分の実力を蓄(たくわ)えようと考えたのです。なお、同年旧暦11月には鎌倉に軍事や警察組織をつかさどる「侍所(さむらいどころ)」を設置しています。
「自分になぜこれだけ多数の武士が付き従ってきたのか」。先述のとおり、武家の棟梁の御曹司から流人に転落し、現地で「武士としての実地訓練」を長年にわたって積んできた頼朝には分かっていました。
頼朝は、当時の多くの武士たちの願いであった「自ら開墾した土地を自身の手で堂々と所有する」ことを実現するのが自分の使命だと考え、そのためにも鎌倉を本拠地として自らの体制を確立しようと考えたのです。
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