このため、補助艦についても主力艦同様に制限をかけるため、昭和2(1927)年にスイスのジュネーヴにおいてアメリカ・イギリス・日本の3か国間で討議されましたが、アメリカとイギリスとの意見の衝突によって物別れに終わりました。これを「ジュネーヴ軍縮会議」といいます。
その後、昭和3(1928)年にはアメリカやフランスの提案によって各国の代表がパリに集まり、国際紛争の解決や国家の手段としての戦争を放棄することを規定した「パリ不戦条約」が結ばれました。
もっとも、不戦条約によって一切の戦争を放棄したわけではなく、我が国を含む各国が「自衛のための戦争は認められる」という見解を持っていました。ただし、自衛戦争の範囲がどこまで認められるかについての明確な規定がなかったために、後に中国大陸などにおける我が国による政策や軍事的行動が「不戦条約違反」として各国から非難されるようになったのです。
なお、パリ不戦条約には違反した場合の制裁の規定はありませんでした。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。