昭和3(1928)年、先の大正14(1925)年に成立した普通選挙法に基づく最初の衆議院総選挙が行われ、無産政党勢力が8名の当選者を出しました。選挙という民主的な手段によって我が国で初の無産政党に所属する代議士が誕生したわけですが、時を同じくして、それまで非合法活動を続けてきた日本共産党が公然と活動を開始しました。
当時はソ連(現在のロシア)の「コミンテルン日本支部」としての性格も持っていた日本共産党の活動に、国体(=国家としての体制のこと)破壊の危機を感じた当時の田中義一(たなかぎいち)内閣は、選挙直後の3月15日に全国規模で共産党員の一斉検挙を行うとともに、共産党の影響下にあった労働農民党(労農党)や共産党系の労働組合であった日本労働組合評議会など3団体を結社禁止にしました。これを「三・一五事件」といいます。
共産党勢力の拡大を恐れた政府は、同じ昭和3(1928)年に治安維持法を改正し、最高刑を死刑としました。また、明治末期に起きた大逆(たいぎゃく)事件をきっかけに創設された特別高等警察(=特高)を全国の警察に設置し、翌昭和4(1929)年4月16日には共産党の多数の幹部が検挙されました。これは「四・一六事件」と呼ばれています。
これらの事件や法改正によって共産党は壊滅的な打撃を受けましたが、社会主義の思想そのものは、やがて別の方面から我が国の政治や経済に大きな影響を及ぼすようになるのです。
なお、最高刑が死刑に引き上げられた治安維持法でしたが、実際に死刑になった人間は一人も存在しませんでした。小林多喜二(こばやしたきじ)が特高に虐殺(ぎゃくさつ)された事件が一般的に知られていますが、これは取り調べ中の拷問(ごうもん)によるものであり、共産主義国家において取り調べすら受けられずに、有無を言わさず死刑にされてしまうこととは全く意味が異なることを理解する必要があります。
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