備中松山藩の改革成功の噂を耳にした越後長岡(えちごながおか)藩士の河井継之助(かわいつぎのすけ)は、本当かどうかを自分の目で確かめたくなって、安政6(1859)年に方谷を訪ねました。当初は農商出身の方谷を「山田」と呼び捨てにしていた継之助でしたが、方谷による言行一致の見事な振る舞いや、彼が進めた藩政改革の成果を見て「山田先生」とすぐに態度を改め、深く心酔するようになりました。
方谷から多くを学んだ継之助は、帰藩後に越後長岡藩の藩政改革を断行して多くの成果を収めましたが、後に北越戦争において官軍と戦った際に負傷し、明治元(1868)年に42歳で亡くなりました。
臨終の際、継之助は「もし備中松山に行くことがあれば、河井は生涯先生の教えを守ったと方谷先生に伝えてもらいたい」と言い残したそうです。
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