藩の将来を憂慮した若き藩主の勝静(かつきよ)は、学問を究めた方谷にすべてを託し、農民出身でありながら「元締役」と「吟味役」の兼任という藩財政の最高責任者に抜擢(ばってき)したのです。
勝静(かつきよ)の熱意もあって、大抜擢に対する上級藩士の反発をよそに元締役と吟味役の兼任を引き受けた方谷でしたが、そんな彼の前に大きく立ちはだかったのが、天井知らずに積み上がった藩の負債でした。
長年の粉飾決算(ふんしょくけっさん、会社が不正な意図をもって経営成績および財政状態を実際より過大または過小に表示するように人為的操作を加えた決算のこと)もあって、当時の備中松山藩の累積(るいせき)赤字はおよそ10万両(現代の金額で約600億円)に達する巨額であり、また藩の石高(こくだか)は名目の5万石に対して実質は約19,000石の収穫しかなかったのです。これでは従来の農政を中心とした財政改革など出来ようはずがありません。
そこで、方谷は自らが説いた経済論たる「理財論」や政治論たる「擬対策(ぎたいさく)」に基づき、従来の米本位経済にこだわらない大胆な手法で藩政改革を成し遂げようと決意しました。
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