そんな方谷を助けたのが学問でした。5歳の頃から朱子学や詩文を学んだ方谷は、わずか9歳の折に「将来は何になりたいか」と問われた際に、治国平天下(ちこくへいてんか)、すなわち「天下を治めるにはまず自分の行いを正しくし、次に家庭をととのえ、次に国家を治め、そして天下を平和にすべきである」と答えたと伝えられています。
文政(ぶんせい)12(1825)年、21歳になった方谷は当時の備中松山藩主であった板倉勝職(いたくらかつつね)から俸禄(ほうろく)を与えられて、京都や江戸へ出て学問に勤(いそ)しむ日々を過ごした後、やがては武士として取り立てられるようになり、父の悲願であった山田家再興を成し遂げました。
30歳になった天保(てんぽう)5(1834)年、方谷は江戸で随一の儒学者といわれた佐藤一斎(さとういっさい)の門下生となり、同門の佐久間象山(さくましょうざん)と競いながら陽明学を学びました。その後天保7(1836)年に故郷へ戻った方谷は、藩校の有終館(ゆうしゅうかん)の学頭(がくとう、校長のこと)に任じられ、自らも「牛麓舎(ぎゅうろくしゃ)」という私塾を開いて、藩士のみならず農民や女性にも学問を教えました。
そして嘉永(かえい)2(1849)年、45歳になった方谷は新藩主の板倉勝静(いたくらかつきよ)から藩の元締役(もとじめやく)と吟味役(ぎんみやく)に任じられ、藩政改革を断行することになるのです。
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