世界恐慌や金解禁などによって始まった昭和恐慌は、農村部にも深刻な影響をもたらしました。昭和5(1930)年はコメが大豊作となったことで米価が暴落して豊作飢饉(ききん)となり、その翌年である昭和6(1931)年には逆に大凶作となりました。
折からの恐慌で農家の兼業が望めなくなったうえに、都市の失業者の多くが帰農した際に大凶作となったことから、農村では甚大な危機となりました。農家の多くは翌年の種籾(たねもみ)まで食い尽くしたほか、欠食児童や婦女子による身売り(=親が給与を前借りして働きに出すこと)が続出しました。
金解禁を断行した浜口内閣への非難の声は、幣原外相の協調外交がもたらした軍縮に関する問題(詳しくは後述します)もあって日増しに高まり、浜口首相が昭和5(1930)年11月に東京駅で狙撃(そげき)されると、翌昭和6(1931)年4月に内閣が総辞職し、後継の第二次若槻礼次郎内閣も短命に終わりました。
その次の立憲政友会による犬養毅(いぬかいつよし)内閣が組閣直後の昭和6(1931)年12月に「金輸出再禁止」を行ったほか、大蔵大臣の高橋是清(たかはしこれきよ)による経済政策によって我が国の景気はようやく回復へと向かうのですが、それまでの昭和恐慌の爪痕(つめあと)は予想外に大きく、我が国の将来に重大な影響を与えることになるのです。
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