北京へ迫る蒋介石の国民革命軍と満州を守る日本軍とに挟まれた張作霖は総退却を決断し、昭和3(1928)年6月に再起を期して北京から満州へと列車で移動しましたが、同月4日に奉天(ほうてん、現在の瀋陽=しんよう)郊外で列車ごと爆破されて死亡しました。
この「張作霖爆殺事件」は当時「満州某(ぼう)重大事件」と報じられ、国民には真相が知らされていませんでしたが、やがて事件の首謀者として関東軍の河本大作(こうもとだいさく)大佐が浮かび上がりました。
田中首相は、昭和天皇の思召(おぼしめ)しもあって事件の関係者の厳重処分を決断しましたが、閣僚や陸軍の反対を受けてしまい、結局事件をうやむやにしたうえで、翌昭和4(1929)年6月27日に調査結果を昭和天皇に上奏(じょうそう、天皇に意見や事情などを申し上げること)しました。
まだ28歳とお若かった昭和天皇のお顔の色がにわかに変わり、お怒りの声を発せられました。
「この前の約束と話が違うではないか!」
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