一方、田中内閣は昭和2(1927)年6月に東京で日中の外交官や軍人など関係者を招集して「東方会議」を開き、チャイナにおける我が国の権益を守るために積極的に防衛対策を行うことが決められました。
翌1928(昭和3)年に蒋介石が北伐を再開すると、田中内閣は同年4月に「第二次山東出兵」を行い、多数の日本人が居留していた済南(さいなん)を警備しました。5月になって蒋介石の国民革命軍が済南に入城すると、日章旗を損傷したり、排日ビラを貼付(ちょうふ)したりするなどの反日行為を行ったため、日本軍が抗議しました。
これに対し、蒋介石は「済南の治安は革命軍が責任を持って確保するので、城内の日本軍による警備を撤去してほしい」と申し入れしてきたので、蒋介石を信用した日本軍は、夜を徹して兵を引き揚げました。
しかし、このことが信じられないような虐殺(ぎゃくさつ)事件を招いてしまうのです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。