江戸を動くことが出来ない勝は、山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)を使者として駿府へ向かわせ、同年旧暦3月9日に東征大総督府参謀(とうせいだいそうとくふさんぼう)の西郷隆盛と会見させました。
山岡は勝の手紙を西郷へ渡して朝廷に取り計らうよう依頼しましたが、西郷は山岡に対して複数の条件を突き付けました。西郷の条件は江戸城の引き渡しや旧幕府軍の武装解除などであり、山岡はそれらの要求を大筋で受けいれたものの、一つだけは断固として拒否しました。
その要求とは「徳川慶喜の身柄(みがら)を備前藩に預けること」でした。勝と同じく旧幕臣の山岡鉄舟にとって、自らの主君が流罪(るざい)になってしまうことだけは、他の旧幕臣をなだめるためにも絶対に受けいれられなかったのです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。