ところが、前回(第82回)も紹介したとおり、幕末を迎える頃までに水戸学は「主君としてふさわしいのは幕府よりもむしろ天皇を中心とする皇室であり、また諸外国からのいわゆる外圧に対しては、これを排除すべきである」とする尊王攘夷の考えが中心となっていました。
要するに、徳川家でありながら皇室を重視する学問を慶喜自身が幼い頃から身に付けていたことによって、慶喜は将軍家でありながら同時に皇室も尊敬しており、だからこそ慶喜にとって自らが朝敵となることは、たとえ将軍という武家の棟梁(とうりょう)の地位を投げ出してでも絶対に許されないことだったのです。
こうした慶喜の姿勢が一般的に「弱腰」と見なされることが多いですが、逆から見れば、慶喜が朝廷と争わずに謹慎したからこそ、徳川家が滅ぼされることもなければ諸外国の介入を招くこともなく、また後述するように江戸の町を戦火にさらすことを防げたことを私たちはもっと知るべきではないでしょうか。
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