天皇お自らが政治を行われるのであれば、そこに徳川家が入り込む隙間(すきま)は全くありません。しかも、かつて徳川家に大政奉還を許した反省があったからなのか、討幕派は大号令の直後に官職の大改革を実行しました。
すなわち、それまで1000年以上続いた摂政や関白を廃止し、新たに総裁・議定(ぎじょう)・参与の「三職」を創設したのです。
総裁には有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)が就任し、議定には公家の中山忠能(なかやまただやす)や前土佐藩主の山内容堂らが、参与には岩倉具視(のち議定に異動)や、雄藩の代表として薩摩藩の西郷隆盛や大久保利通、長州藩の木戸孝允、土佐藩の後藤象二郎(ごとうしょうじろう)らが任命されました。
しかし、新たに創設された三職に徳川慶喜の名はありませんでした。これによって徳川家が新政権への参加の道を断たれたのみならず、討幕派が中心となった新政府はさらなる追い討ちを同日のうちに徳川家にかけたのです。
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