国内外から同時に攻め込まれ、まさにボロボロの状態になった長州藩では保守派の勢力が強くなり、藩内の尊攘派を弾圧して幕府に対し恭順(きょうじゅん、命令につつしんで従う態度をとること)の意を示しました。このため、幕府の征討軍は戦わずして長州から引き揚げています。
攘夷に対する欧米列強の報復を受けた形になった長州藩でしたが、実は薩摩藩も同じような報復を1年前に受けていました。
文久2(1862)年に起きた生麦事件の報復として、翌文久3(1863)年旧暦7月にイギリスの軍艦が鹿児島湾を攻撃したのです。この戦いは「薩英戦争」と呼ばれています。
四国艦隊下関砲撃事件や薩英戦争によって列強の実力を思い知らされた長州・薩摩の両藩は武力による攘夷が不可能であることを悟(さと)り、外国から学びながら力を蓄(たくわ)える道を選択しました。いつの世も、人間は実際に経験しないと本質が理解できないのが宿命なのかもしれませんね。
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