ところで、この事件は「禁門(きんもん)の変」と呼ばれていますが、そもそも天皇がおわします御所は「みだりにその裡(うち)に出入りすることを禁ずる」場所であったことから「禁裡(きんり)」と呼ばれ、後に天皇がお住まいの建物の「内裏(だいり)」から「禁裏(きんり)」と称されました。ちなみに事件名の由来となった「禁門」とは「禁裏に入る門」のことであり、後には御所そのものを意味するようになりました。
また、この事件の別名は「蛤御門(はまぐりごもん)の変」と呼ばれていますが、事件で最も激戦地となったのが蛤御門であり、門の梁(はり)には今も弾痕(だんこん)が残っています。なお「蛤御門」は俗称であり(正式名称は「新在家(しんざいけ)御門」)、御所の火災の際に滅多に開くことのなかった門がこの時だけは開いたため、固く閉じていたものが火にあぶられて開いたことをハマグリになぞらえて名付けられたとされています。
翌元治元(1864)年旧暦8月、禁門の変によって朝敵(ちょうてき)とされた長州藩に対して、幕府が諸藩を動員して討伐の軍を起こしました。これを「第一次長州征討(または「長州征伐」)」といいます。
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