文久2(1862)年、島津久光は朝廷の勅使(ちょくし、天皇の使者のこと)とともに江戸へ向かい、幕政の改革を要求しました。この意向を受け、幕府は徳川慶喜(一橋慶喜)を将軍後見職(しょうぐんこうけいしょく)に、松平慶永を政事総裁職(せいじそうさいしょく)に、会津(あいづ)藩主の松平容保(まつだいらかたもり)を新設の京都守護職(きょうとしゅごしょく)に任じました。
この他、幕府は同時に参勤交代を三年に一回に縮小したり、大名の妻の帰国を認めたり、西洋式の軍制を採用したりしました。これらの改革は当時の年号から「文久の改革」と呼ばれています。
さて、これらの改革の中で特に不思議なのは京都守護職です。なぜなら、そもそも京都には京都所司代(きょうとしょしだい)という別の役職が存在していたからです。それなのに、なぜわざわざ京都守護職を設けなければならなかったのでしょうか。
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