公武合体の象徴として、安藤は将軍徳川家茂の夫人に孝明天皇の妹君の和宮(かずのみや)を迎えることに成功しましたが、これは将軍が天皇の義理の弟になることを意味しており、かえって逆効果になってしまいました。
なぜなら、この図式は長幼(ちょうよう)の序(年長者と年少者の間にある一定の秩序のこと)から見て「弟たる幕府は兄の朝廷に従わなければならない」ことにつながってしまうからです。事実、この後幕府は朝廷から攘夷の実行を約束され、その対応に苦労することになりました。
また、家茂と和宮とのいわゆる政略結婚は尊王攘夷の強い反発をもたらし、安藤は文久2(1862)年旧暦1月に江戸城の坂下(さかした)門外で水戸藩の脱藩浪士らに襲われ負傷し、その後に老中を退きました。この事件を「坂下門外の変」といいます。
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