特に前水戸藩主の徳川斉昭や当時の水戸藩主の徳川慶篤(とくがわよしあつ)、尾張(おわり)藩主の徳川慶勝(とくがわよしかつ)、越前藩主の松平慶永らは、江戸城への登城日でもなかったのに「押しかけ登城」を行い、直弼を激しく問いつめました。
しかし、直弼には直弼の言い分がありました。彼は開国という国家の存亡にかかわる重要な問題に対し、それまでの幕府の為政者たちが無責任に先送りしてきたツケを一気に払わされただけという立場でもあったのです。
加えて、条約反対派あるいは攘夷派が「外国人など我が国から追い出せばよい」と口先では威勢のいいことを言いながら、もし我が国が侵略されたらどうするのか、という問題に対しては口をつぐんで答えようともしないという有様も直弼を苛立(いらだ)たせていました。
反対派や攘夷派の余りもの無責任さに怒りが爆発した直弼は、幕府大老という自分の立場を活用して彼らに対する大粛清(だいしゅくせい)を行う決意を固めました。安政5(1858)年から6(1859)年にかけてのこれらの弾圧は「安政の大獄(たいごく)」と呼ばれています。
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