薩摩藩主の島津斉彬や越前藩主の松平慶永らの有力な大名は、ペリーの来航以来混乱が続く幕府政治に対応できる賢明な将軍を擁立(ようりつ)すべきであると考えて、前水戸藩主の徳川斉昭の実子で御三卿(ごさんきょう)の一橋家(ひとつばしけ)の養子となった徳川慶喜(とくがわよしのぶ、または「一橋慶喜」)を推していました。
一方、彦根藩主の井伊直弼などの譜代(ふだい)大名らは、将軍家定と血統が近いものの、まだ幼かった紀州藩主の徳川慶福(とくがわよしとみ)を推していました。慶喜を推す一派を「一橋派」、慶福を推す一派を「南紀(なんき)派」といいます。
一橋派と南紀派とが対立を続けていた安政5(1858)年に将軍家定が重態となると、南紀派の譜代大名らの後押しもあって井伊直弼が大老に就任しました。直弼は先述のとおり旧暦6月に勅許(ちょっきょ、天皇による許可のこと)が下りないまま日米修好通商条約の締結を決断し、同月には次期将軍候補として徳川慶福を決定するなど、強権的な政治を行いました。
なお、慶福は名を「徳川家茂(とくがわいえもち)」と改め、家定の死を受けて同じ安政5(1858)年に13歳で14代将軍に就任しています。
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