このため、老中の阿部正弘(あべまさひろ)は朝廷を始め諸藩(しょはん)に対して広く意見を求めましたが、これは絶対にやってはいけないことでした。
なぜなら、朝廷や諸藩の意見に耳を傾けるという行為が、幕府の政策に対して口出しすることを認めてしまったからです。事実、これ以降に幕府の威信が低下した一方で、諸藩の発言力が強化されたのみならず、朝廷の権威を高める流れにもつながってしまいました。
しかも、朝廷や諸藩から意見を求めたにもかかわらず、幕府が何の解決策も見いだせないまま時が流れていくうちに、ペリーが再び我が国に来航してきたのです。
なお、ペリーの最初の来航と同じ年の嘉永6(1853)年旧暦7月には、ロシアのプチャーチンも長崎に来航して、国境の画定と開国を要求しています。
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