つまり、日本を開国させるためにはビッドルのように下手(したて)に出るのではなく、強気の姿勢で対応したほうが良いと判断したのです。こうしたアメリカの思惑によって、嘉永(かえい)6(1853)年旧暦6月に、アメリカ東インド艦隊司令長官のペリーが4隻(せき)の黒船を率いて浦賀に来航しました。
ペリーは黒船に多くの大砲を並べたうえで空砲を放つなどの威嚇(いかく)を加えながら、幕府に対して開国を求めるフィルモア大統領の国書の受理を迫りました。
アメリカの有無を言わさぬ態度に対して、抵抗をあきらめた幕府は国書を受け取らざるを得ず、回答を翌年に行うことを約束してペリーをようやく退去させました。しかし、幕府のこうした手段は苦しまぎれであるとともに結論の先送りに過ぎず、その後の対応に苦しむことになるのです。
なお、黒船来航当時の幕府の対応を皮肉った狂歌(きょうか)である「泰平の 眠りを覚ます 上喜撰(じょうきせん) たった四杯で 夜も眠れず」が有名です。この歌は蒸気船と「宇治(うじ)の高級茶」を意味する「上喜撰」を掛けているほか、四杯の「杯」は船を数える単位でもあります。
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