国民革命軍は南京などの主要都市を次々と攻め落としましたが、その一方で、国民党内で共産党員が増加していた事態を警戒した蒋介石は、1927(昭和2)年4月に上海で多数の共産党員を殺害しました。この事件は、今日では「上海クーデター」と呼ばれています。
上海クーデターの後に国民政府を立ち上げた蒋介石が共産党と対決する姿勢を明確に示したことで、第一次国共合作は事実上崩壊しました。蒋介石が率いた革命軍はその後も北伐に向けて進撃を続けましたが、チャイナにおける大きな混乱は、大陸に権益を持っていた世界各国に深刻な影響をもたらしていました。
上海クーデターより以前の1927(昭和2)年1月、当時は租界と呼ばれた外国人居留地であった漢口(かんこう)や九江(きゅうこう)が革命軍に次々と襲われ、多数のイギリス人が殺害されただけでなく、租界そのものを革命軍に奪われてしまうという事件が発生しました。これを「イギリス租界奪取事件」といいます。この非常事態に対して、イギリスは自国内で多数の軍隊を動員するとともに、かつての北清(ほくしん)事変にならって列強各国に出兵を要請しました。
しかし、我が国は「外交上の理由」でこの要請を拒否してしまうのです。
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