天保11(1840)年、幕府は当時相模(さがみ、現在の神奈川県)の海岸警備を担当していた武蔵(むさし、ここでは埼玉県川越市付近のこと)の川越(かわごえ)藩への財政援助を目的として、川越藩が財政豊かな出羽(でわ、ここでは山形県)の庄内(しょうない)藩へ、庄内藩が越後の長岡(ながおか)藩へ、長岡藩が川越藩へ移るという、いわゆる「三方領知替(さんぽうりょうちが)え」を命じました。
しかし、藩主の転封(てんぽう)を知った庄内藩の領民が後に「天保義民事件」と呼ばれた大規模な反対運動を展開して抵抗したり、諸大名の間からも不満の声が高まったりしたため、領知替えは翌天保12(1841)年に12代将軍の家慶によって撤回されました。
幕府が大名の転封を一度は決定しながらその命令を最終的に撤回させられたことは、幕府が他藩に対してそれまで強制してきた幕藩体制を動揺させる結果となりました。なお、水野は三方領知替え以前の天保10(1839)年から老中首座となっています。
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