この出来事は「フェートン号事件」と呼ばれていますが、この後もイギリス船が何度も我が国の近海に出没したため、業(ごう)を煮やした幕府は文政8(1825)年に「異国船打払令(いこくせんうちはらいれい、別名を無二念打払令=むにねんうちはらいれい)」を出し、清国とオランダ以外のすべての外国船を撃退するように命じました。
確かにフェートン号の所業は許せないものがありましたが、だからと言って問答無用で外国船を打ち払うというのは余りにも極端な対応と言わざるを得ません。結局、このような幕府の場当たり的な対応がさらなる悲劇を呼んでしまうのです。
なお、事件の後に幕府から叱責を受けた肥前藩は、汚名返上を目指して軍備を整えていきました。薩摩(さつま)藩や長州(ちょうしゅう)藩よりもずっと前から攘夷の不可能を理解していた肥前藩だったからこそ、他の藩に先駆けて最新鋭の武器であるアームストロング砲を開発し、やがては維新の元勲として君臨するという歴史の流れがもたらされたのです。
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