この出来事は「フェートン号事件」と呼ばれていますが、この後もイギリス船が何度も我が国の近海に出没したため、業(ごう)を煮やした幕府は文政8(1825)年に「異国船打払令(いこくせんうちはらいれい、別名を無二念打払令=むにねんうちはらいれい)」を出し、清国とオランダ以外のすべての外国船を撃退するように命じました。
確かにフェートン号の所業は許せないものがありましたが、だからと言って問答無用で外国船を打ち払うというのは余りにも極端な対応と言わざるを得ません。結局、このような幕府の場当たり的な対応がさらなる悲劇を呼んでしまうのです。
ところで、事件の後に幕府から叱責を受けた肥前藩は、汚名返上を目指して軍備を整えていきました。嘉永(かえい)6(1853)年には「からくり儀右衛門(ぎえもん)」と呼ばれた発明家の田中久重(たなかひさしげ)を精錬方(せいれんがた)として迎えて蒸気機関の研究をさせると、やがて久重は当時の世界最新鋭の大砲であった「アームストロング砲」の開発に成功しました。
薩摩(さつま)藩や長州(ちょうしゅう)藩よりもずっと前から攘夷の不可能を理解していた肥前藩だったからこそ、後に維新の元勲として君臨するという歴史の流れがもたらされたのです。なお、久重が晩年に設立した「田中製造所」は、我が国が世界に誇る大手電機メーカーである「東芝」のルーツとなっています。
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