幕府の冷酷な対応に態度を硬化させたロシアは、文化3(1806)年から文化4(1807)年にかけて樺太(からふと)や択捉島を攻撃しました。
ロシアの強硬な態度に驚いた幕府は、文化4(1807)年に蝦夷地をすべて直轄地として松前奉行に支配させ、東北の各藩にも沿岸の警備を命じました。
また、文化5(1808)年には間宮林蔵(まみやりんぞう)に樺太やその沿岸を探検させましたが、間宮は調査の結果、樺太が島であることを発見しました。我が国では間宮の功績を称(たた)える意味で、樺太とロシアの沿海州(えんかいしゅう)との間にある海峡(かいきょう)を「間宮海峡」と名付けています。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。