そんな中、文化5(1808)年にオランダの国旗を掲(かか)げた船が長崎の出島に入港しました。関係者と思い込んだオランダ商館員が船に乗り込んで出迎えようとすると、彼らが捕えられて船に連行されると同時にオランダ国旗が降ろされ、代わりにイギリス国旗が誇らしげに掲げられました。
実は、この船はイギリスのフェートン号が化けていたものだったのです。フェートン号は人質を盾(たて)に長崎港内でのオランダ船の捜索を行うとともに、燃料や食糧を我が国に求め、要求が通らない場合には港内の日本船を焼き払うと通告してきました。
イギリスによる余りもの乱暴狼藉(らんぼうろうぜき)ぶりに長崎奉行の松平康英(まつだいらやすひで)は激怒しましたが、どうすることもできませんでした。なぜなら、泰平の世が長く続いたことによって、幕府や警備を担当していた肥前(ひぜん)藩による長崎における兵力が激減しており、戦える状態ではなかったからです。
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