そこで、中国は我が国を味方に引き入れようと様々な工作をしました。例えば、紀元57年に後漢(ごかん)を訪問した奴国(なこく)に「漢委奴国王」(かんのわのなこくおう)という金印(きんいん)を授(さず)けたり、239年に魏(ぎ)を訪問した邪馬台国(やまたいこく)の女王卑弥呼(ひみこ)の使節には、「親魏倭王」(しんぎわおう)の称号や金印の他に多数の銅鏡(どうきょう)などを贈ったりしています。
特に、卑弥呼の使節に魏が与えた宝物(ほうもつ)は、他の朝貢国(ちょうこうこく)と比較にならないくらい量が多かったそうです。多数の宝物を贈ったという事実は、魏には邪馬台国を自分の支配下に置くことにより、外交上の優位に立ちたいとする思惑があった何よりの証拠(しょうこ)です。
また、邪馬台国にとっても魏との外交は、我が国内で優位に立つためのひとつの手段だったとも考えられます。いざとなれば中国大陸から援軍がやってくるかもしれないという可能性は、邪馬台国と対立する他国にとっては大いに脅威(きょうい)だったことでしょう。それゆえに、中国が混乱状態になって邪馬台国が大陸との縁(えにし)を失ってしまうと、大和朝廷(やまとちょうてい)によって征服されてしまったという仮説(かせつ)が成り立つのです。




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