先述のとおり、11代将軍である徳川家斉は、吉宗が御三家と同じように「血のセーフティーネット」として自身の血統から新たに設立した御三卿の一橋家の出身でした。
家斉は親孝行の思いから、父である一橋治済(ひとつばしはるさだ)に対して前の将軍を意味する「大御所(おおごしょ)」の尊号を贈ろうと考えました。しかし、定信は朝廷に対して太上天皇の尊号を拒否した以上、治済に対しても同じように大御所の尊号を拒否せざるを得ませんでした。
このことで家斉は機嫌を損ねて定信と対立し、やがて寛政5(1793)年に定信は老中を辞めさせられてしまい、寛政の改革は約6年で幕を閉じました。なお、定信の失脚後も老中の松平信明(まつだいらのぶあきら)らが「寛政の遺老(いろう)」として政治を行っています。
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