寛政異学の禁によって、諸藩も幕府にならって朱子学のみを教えるようになったので、それ以外の学問、特に西洋の蘭学が衰退する原因となってしまいました。漢訳洋書の輸入を許可した吉宗の孫とは思えない愚策ぶりです。
もっとも、寛政異学の禁の本来の趣旨は幕府の教育機関での異学の講義禁止を意図しており、国内の異学派による学問や講義までが禁じられたわけではありませんでした。
ちなみに、湯島聖堂は定信が老中を退任した後の寛政9(1797)年に幕府の直営となり、昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんしょ)と称されました。昌平坂学問所はもともと幕臣の子弟の教育所として発足しましたが、後に藩士や牢人(ろうにん)の受けいれも許したことで、全国からの英才を集めて活気にあふれました。
なお、昌平坂学問所は現在の東京大学の流れにつながるほか、明治以降に同じ場所に設立された東京師範学校や東京女子師範学校は、現在の筑波大学やお茶の水女子大学の源流となっています。
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