これらは、享保の改革の際と同じように「寛政文化」と呼ばれるものが存在しない大きな原因となりましたが、その一方で、節約で浮いた町費(ちょうひ)の七割を積み立てさせて江戸町会所(えどまちかいしょ)に運用させることで、飢饉の際などの非常時の貧民の救済に利用しました。これを七分積金(しちぶつみきん)といいます。
また、寛政の改革が始まった頃には天明の大飢饉がまだ続いており、庶民の暮らしは不安定になっていました。そこで、定信は飢饉に備えて各地に社倉(しゃそう)や義倉(ぎそう)をつくらせ、穀物を蓄(たくわ)えさせました。これを囲米(かこいまい)といいます。
この他、定信は現代の刑務所の原点ともいえる、無宿人(むしゅくにん)への職業訓練施設として石川島(いしかわじま)に人足寄場(にんそくよせば)を設置しましたが、これは定信自身の案ではなく、池波正太郎(いけなみしょうたろう)の小説「鬼平犯科帳(おにへいはんかちょう)」で有名な火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためかた)の長谷川平蔵(はせがわへいぞう)が考えたものです。
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